2010年05月05日

新潟の旅③

2日目(5/3)は、まず朝からサプライズでした。
朝食を食べていると後ろの席から、”つくば”という単語と聞いたことのある声が聞こえてきました。
そろっとふりかってみると、知人のN君がご家族で食事を摂っていました(^^;)
初対面のご家族とごあいさつをし、話をしてみると、やはり結婚式に出席するため長岡まで来たとのこと、、
しっかし、旅先の長岡で会おうとは思ってもみませんでした(^^;)向こうもそう思ってるでしょうけどね。

ということがありつつ、2日目に訪れたのは、長岡市与板歴史民俗資料館に行ってきました!
この名前を見ただけだと、展示内容もよくわかりませんが、この歴史民俗資料館は”兼続お船ミュージアム”というんだそうです。
新潟の旅③
兼続公の銅像はここにしかないそうです。
(ちなみに台座は稲田御影石のようでした。)


去年の大河ドラマで注目された”直江兼続”と関係の深い地域なわけです。
朝9時の開館直後に訪ねたわけですが、その時点ですでに20人近くはいらっしゃっていたでしょうか。
大河効果ですかね。
新潟の旅③

兼続ゆかりの甲冑や古文書については、実際に足を運んでご覧頂くとして(^^)
パンフに簡単な紹介がありましたので、ご覧下さい。

直江兼続は、永禄3年(1560)、越後国上田荘にうまれたといわれています。
父は坂戸城(南魚沼市六日町)主・長尾正景に仕えた樋口兼豊です。
天正9年(1581)、与板城主・直江信綱が殺害されると、主君・上杉景勝の配慮により、兼続は信綱の妻お船と結婚し、直江の名跡を継ぎました。
天正16年(1588)、兼続は豊臣秀吉から「豊臣」の姓を与えられ、桐紋の使用も許されました。
秀吉は兼続を「天下の治世任じ得る人物」と絶賛し、高く評価していたといいます。
慶長3年(1598)、景勝が会津120万石に移封されると、兼続は米沢城代を任されました。関ヶ原の合戦後、上杉家が米沢30万石に減封されてからも、兼続は米沢の発展に力を注ぎました。
元和5年(1619)、兼続が江戸で60年の生涯を閉じると、多くの人々がその死を惜しんだと、上杉家の記録はつたえています。


2日目はまだまだ始まったばかりですので、関ヶ原前後の時代に思いをはせながら、ミュージアムを後にしました。

(つづく)



Posted by いのししお at 22:29│Comments(0)
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